地行。

福岡市中央区地行といえば菰川樋井川に挟まれた地区ですが、現在は海が埋め立てられてヤフードームが建ったりしています。埋め立てられたのは昭和の終わり頃。それ以前の海岸線は、今のよかトピア通りとほぼ一致していると思って間違いは無い。

もっと昔、江戸時代の地行あたりの様子はどうだったんでしょう。

毎度お馴染み、九大デジタルアーカイブで閲覧できる古地図を見てみましょうか。「安永6年(1777) 福岡御城下絵図 壱」という地図が見やすいですね。

地行地区、江戸時代の町割りが今も変わらずに残っていることがわかります。街並のいちばん南側を東西に横切っているのは唐津街道。今の明治通の一本南の道です。福岡城の黒門 〜 鳥飼八幡宮・大通寺・金龍寺の南側 〜 プラリバの裏 〜 西新・藤崎商店街...というルートが唐津街道になります。江戸時代は、こちらの道がメインストリートだったのですね。言われてみれば、明治通側から見る鳥飼八幡宮は「裏手」という風情ですなぁ。

上にも挙げた鳥飼八幡宮・大通寺・金龍寺、それから樋井川沿いの浄満寺・真福寺などは江戸時代も現在も、ほぼ同じ場所にあります。真福寺の北側、源正寺というお寺は現存しませんね。調べてみると、

源正寺
廃寺なり。(略)寛文十二[1672]年常空といふ僧か請に依て寺地を賜ハり地形七番丁濱に移れり。(略)其後滅寺となる。
[筑前国続風土記拾遺 福岡神社仏閣(上)]  
だそうだ。この「筑前国続風土記拾遺」という書物は19世紀の前半あたりの文献なので、このお寺、江戸後期には既に廃れてしまったみたい。

さてさて、浜のほうを見てみましょう。

浜に沿って東西に道が通っていて、その道から浜のほうに張り出すかたちで圓徳寺というお寺があります。この圓徳寺、現在もその場所に建っています。ヤフードームの脇から地行〜鳥飼へと続く道に「地行2丁目」という交差点がありますが、その交差点から東に路地を入ったところ。

entoku.jpgこのお寺の裏手が、砂浜だか干潟だかわかりませんが、すぐ海だったのですねぇ。

で、円徳寺の縁起を「筑前国続風土記拾遺」で調べてみると、

圓徳寺
(略)正保[1644-1648]中創立す。始は湊町にあり。其後二世存也今の地に迂せり。(略)寛文十三[1673]年寺地を賜ひし證文有りしか本紙今伝はらす。
...とあります。この場所に移ってきたのは、おそらく1670年代あたりであろうということですな。

九大デジタルアーカイブで、ちょうどこの1670〜80年代あたりの福岡の様子を描いたと思われる「宝暦〜天明期 福岡御城下絵図」を見てみると、地行浜に「圓徳寺」は見当たりません。元禄12[1699]年に描かれた「福岡御城下絵図」には「圓徳寺」が登場しています。

この辺りの現在の地図はこちら。


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