薬院川。
もう20年くらい福岡市に住んでいて、ずっと「薬院新川があるのに薬院川が無いのは何故だろう」と疑問に思っていたのです。で、調べてみた。
福岡県立図書館のWebページで、江戸期の福岡藩の絵図を閲覧することができます。
→ 福岡県の近世絵図|福岡県立図書館
福岡城のお堀が、ずいっと東の方に伸びて那珂川まで繋がっている事も分かりますが、その(現在は埋め立てられてしまった)お堀の南側に、東西に伸びる水路が確認できますね。
これが「薬院川」。「泥川」とも呼ばれていたようです。その流れを現在の福岡市の地図と比べてみると、国体道路の道筋と完全に一致する事がわかります。南の方から来た流れが、国体道路の警固交差点のあたりで東に急角度で曲がって、今の三光橋交差点のところで薬院新川と合流、那珂川へと注ぎます。
→ アンティーク絵葉書に観る、懐かしの福岡・天神町(http://www.asocie.jp/archives/fukuoka/fukuoka/tenjin/)
このWebページで紹介されている「F3231■天神町空撮(昭和10年頃)」という写真で、健在だった頃の薬院川の姿を見ることができます。写真右下の、二又に分かれている川の右側が薬院新川、左側が薬院川ですね。
この絵葉書に写されている場所をGoogle Earthで見てみると、国体道路=薬院川...ということが良く判ります。
さてさて、三光橋から警固交差点まで国体道路を歩いても、国体道路が川だった頃の痕跡は見つかりません。でも警固交差点のちょっと手前、国体道路から南へ伸びる「上人橋通り」という通りがありますね。この通りにある香正寺の門前に「上人橋の由来」という看板が立っています。
紺屋町(今の大名1丁目に"紺屋町商店街"という名前が残っていますね)から香正寺へ、薬院川(立て札の中では"小川"と表現されています)をまたぐ橋の名前が「上人橋」。そして「昭和10年代、川は埋め立てられ、今の国体道路となる」とありますな。
警固 - 大名 - 国体道路 - 上人橋通あたりの地図はコチラ。
三光橋あたりの国体道路の地図はコチラ。
地下鉄七隈戦の天神南駅は、昭和初期にいちど埋めた場所を掘り返して造られているわけね。
ちなみに薬院新川は、かつて「四十川」と呼ばれていたそうだ。
福岡県立図書館のWebページで、江戸期の福岡藩の絵図を閲覧することができます。
→ 福岡県の近世絵図|福岡県立図書館
福岡城のお堀が、ずいっと東の方に伸びて那珂川まで繋がっている事も分かりますが、その(現在は埋め立てられてしまった)お堀の南側に、東西に伸びる水路が確認できますね。
これが「薬院川」。「泥川」とも呼ばれていたようです。その流れを現在の福岡市の地図と比べてみると、国体道路の道筋と完全に一致する事がわかります。南の方から来た流れが、国体道路の警固交差点のあたりで東に急角度で曲がって、今の三光橋交差点のところで薬院新川と合流、那珂川へと注ぎます。
→ アンティーク絵葉書に観る、懐かしの福岡・天神町(http://www.asocie.jp/archives/fukuoka/fukuoka/tenjin/)
このWebページで紹介されている「F3231■天神町空撮(昭和10年頃)」という写真で、健在だった頃の薬院川の姿を見ることができます。写真右下の、二又に分かれている川の右側が薬院新川、左側が薬院川ですね。
この絵葉書に写されている場所をGoogle Earthで見てみると、国体道路=薬院川...ということが良く判ります。
さてさて、三光橋から警固交差点まで国体道路を歩いても、国体道路が川だった頃の痕跡は見つかりません。でも警固交差点のちょっと手前、国体道路から南へ伸びる「上人橋通り」という通りがありますね。この通りにある香正寺の門前に「上人橋の由来」という看板が立っています。
(画像クリックで拡大)
紺屋町(今の大名1丁目に"紺屋町商店街"という名前が残っていますね)から香正寺へ、薬院川(立て札の中では"小川"と表現されています)をまたぐ橋の名前が「上人橋」。そして「昭和10年代、川は埋め立てられ、今の国体道路となる」とありますな。
警固 - 大名 - 国体道路 - 上人橋通あたりの地図はコチラ。
三光橋あたりの国体道路の地図はコチラ。
地下鉄七隈戦の天神南駅は、昭和初期にいちど埋めた場所を掘り返して造られているわけね。
ちなみに薬院新川は、かつて「四十川」と呼ばれていたそうだ。
後藤秀規
上人橋の解説中、「昭和10年代、川は埋め立てられ、---」というのは誤りです。「1948年(昭和23年)福岡国体の際に埋め立てられた」、のが正しいのです。このことは、『福岡市歴史散策』(海鳥社)、『福岡町名散歩』(葦書房)など多数の文献に記されています。