春日原球場。

西鉄ライオンズとその時代--ボクらの最強ヒーロー伝説』という、西鉄ライオンズ黄金期の捕手・和田博実さんが監修に携わった本をパラパラとめくっていたら、平和台球場設立の時期と前後して、春日原球場というスタジアムもフランチャイズ球場として使用されていたという記述がありました。

 西鉄ライオンズとその時代 - ボクらの最強ヒーロー伝説:2009

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この本は、まさに「その時代」...西鉄ライオンズの黄金時代の貴重な写真がてんこ盛りの良書なのですが、まぁそれは置いといて。

「春日原球場」という存在が非常に気になったので、図書館に寄って調べてみた。参考文献は『春日市史』、『西日本鉄道百年史』などなど。

この春日原球場、現在、春日公園内に存在する春日球場とは別物で、あった場所はココ↓。

kasugabaru.jpg 現在の地図や航空写真で見てみると、痕跡は全く残っていません。

春日原では1924(大正13)年4月に現在の西鉄の路線が開通。その開通に合わせて、春日原駅の西側に住宅地を造ろうとしていたのだが、折からの不況で断念。運動施設を造ることに。で、出来たのが春日原総合運動公園。春日原球場は、その運動公園内にありました。

同じ1924年の10月30日〜11月1日にかけて、こけら落としの試合が行われました。出場チームはフレスノ球団(フレスノ・オールスター = 在米日系人のチームのようです)、宝塚協会球団(宝塚運動協会 = 日本初の職業野球チーム・日本運動協会の後身)、そして九州選抜チーム。

キャパは5,000人と、当時としてはかなり大きなスタジアムだったみたい。

そして大東亜戦争末期の1945(昭和20)年5月、来るべき本土決戦に備えて春日原球場の南側に「春日原特別攻撃隊基地」が造られることに。特攻隊用の飛行場ですな。出撃記録は残っていないそうなので、完成前に終戦を迎えたようです。

1949年に平和台球場が完成。
同年のシーズンオフに西日本パイレーツ(セ・リーグ加盟)、西鉄クリッパーズ(パ・リーグ加盟)結成。1950年シーズンは、両チームとも平和台をフランチャイズとしながら春日原でも試合を行う。
1951年のシーズン前に両チームが合併して西鉄ライオンズが誕生。引き続き春日原球場でも数試合を行っています。

1953年に、この春日原球場を含む春日原総合運動公園が「春日原分譲地」として宅地造成計画の対象に。同年シーズンをもって、プロ野球公式戦開催の記録はありません。

Wikipedia(2009年9月18日版)では「1968年頃に解体され〜」という記述がありますが、この1968年というのは、おそらく「春日原分譲地」の分譲が始まった時期で、球場の閉鎖・解体時期はそれよりかなり前ではないかと。

国土交通省の航空写真画像情報所在検索・案内システムという、過去の航空写真を閲覧できる便利なサービスがあるのですが、春日原周辺の航空写真を見てみると、1961年の時点で、既に春日原球場の姿は認められなくなっています。

ということで、春日原球場のお話でした。


和田博実さん、今年の6月にお亡くなりになられたのだなぁ。ご冥福をお祈りいたします。


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